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太田神社 (久喜市久喜北) : ミニ英和和英辞書
太田神社 (久喜市久喜北)[おおたじんじゃ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [かみ]
 【名詞】 1. god 
神社 : [じんじゃ, かむやしろ]
 【名詞】 1. Shinto shrine 
: [やしろ]
 (n) shrine (usually Shinto)
: [し]
  1. (n-suf) city 
: [きた, ほく]
 (n) north

太田神社 (久喜市久喜北) : ウィキペディア日本語版
太田神社 (久喜市久喜北)[おおたじんじゃ]

太田神社(おおたじんじゃ)は、埼玉県久喜市久喜北1丁目6-29に所在する神社である。
== 概要 ==
この太田神社は1907年明治40年)8月から11月にかけて行われた合祀により「雷電千勝神社」から「太田神社」へと名称を改められ、村社とされてきた。所在地はかつて大字野久喜丸島596と称されていたが、1973年昭和48年)11月1日の住居表示により北1丁目6-29と改められ、さらに2010年平成22年)3月23日に行われた平成の大合併の際に久喜北1丁目6-29と改名され、現在に至っている。1948年昭和23年)時点での境内地面積は639であった〔『久喜市史調査報告書 第一集 地誌(191ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和58年3月25日 発行〕。祭礼は7月25日とされている〔 『久喜市史調査報告書 第3集 久喜の祭りと行事(86ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和59年3月25日 発行〕。
1907年明治40年)8月から11月にかけて行われた合祀では、8月17日に稲荷神社(大字野久喜字上宿)・香取神社(かんどりじんじゃ、大字野久喜字香取)・青瀧神社(大字野久喜字出来野)、10月3日に稲荷神社(大字古久喜字丸島)・浅間神社(大字古久喜字中島)・浅間神社(大字古久喜字本田)・女体神社(大字古久喜字出来野、大字古久喜鎮守)・白山神社(大字古久喜字本田)、11月11日に千勝神社総鎮守)・雷電神社(大字野久喜鎮守)・女体神社(字和田)・神明社(大字古久喜字市ノ坪)が集められた〔『平成19年度 久喜市市民大学 大学院研究論文集Ⅰ 久喜市神社と神域の護持像、狛犬の調査(80ページ~82ページ)』 久喜市市民大学 発行 平成20年2月16日 発行〕〔 『久喜市史調査報告書 第3集 久喜の祭りと行事(86ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和59年3月25日 発行〕。
境内社として浅間神社・白山神社・青瀧神社・稲荷神社が祀られている。境内施設として本殿社務所鳥居手水舎灯籠の木、イチョウの木、「武蔵国 太田 太田神社」と彫られた標柱、「忠魂碑」と彫られた石碑、「太田神社改修記念碑」と彫られた石碑、「合祀記念碑」と彫られた石碑などである。〔『平成19年度 久喜市市民大学 大学院研究論文集Ⅰ 久喜市神社と神域の護持像、狛犬の調査(82ページ)』 久喜市市民大学 発行 平成20年2月16日 発行〕
7月25日の祭礼では「古久喜の獅子舞」と称される行事が行われる。行事の由来は、おおよそ500年程前(西暦1500年頃)に大水が出た際に古久喜・野久喜の北方を流下している青毛堀川に獅子頭が流れつき、古久喜耕地の人々がこの当時古久喜で一番の大尽と称されていた武井家にこの獅子頭を持ち込み、武井家はこれを遍照院に収め、これ以後、獅子舞が舞われるようになったと伝えられている。行事の流れとして、当日遍照院に集まり、御神酒を用いてお清めを行い、獅子舞の支度をする。支度が済むとを持った天狗を先頭に笛方・大獅子・雌獅子・中獅子・道化の順で列を成し、村回りを行う。その後、太田神社に行き、拝殿の前で弓取り・綱取り・橋渡しと呼ばれる曲目の舞を奉納した後、再び遍照院に戻る、というものである。太田神社では先述のように古久喜・野久喜の神社が合祀されているが、この獅子舞は「古久喜の獅子舞」と称されるように、正確には古久喜の行事となっている。この獅子舞は1935年昭和10年)頃に耕地にて炭素病で死んだ際、被害が拡大しないよう臨時で4か所ので舞ったところ、それ以後は炭素病にかかる馬はいなくなったという伝承があり、また雨乞い流行病が起った際にも厄除けとして舞われることもあった〔 『久喜市史調査報告書 第3集 久喜の祭りと行事(46ページ~49ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和59年3月25日 発行〕。
この他、合祀されている白山神社の「甘酒祭り」という行事がある。1907年明治40年)の合祀以前は旧暦の9月15日に行われていたが、合祀後は月遅れの10月15日に行われるようになり、戦後からは新暦の9月15日に催されるようになった。本来は氏子50件余の中から3件が当番となり甘酒を作り、祭りの当日に神社の境内にを設け、参拝者に配っていた。合祀の後は、戦前までは各家庭で甘酒を作るだけとなり、合祀の後からは神社での甘酒祭りに代わり、当番の家で白山講を行うようになった。この行事も古久喜の行事となっている〔 『久喜市史調査報告書 第3集 久喜の祭りと行事(73ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和59年3月25日 発行〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「太田神社 (久喜市久喜北)」の詳細全文を読む




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